霧葵のブログ

大学受験/百合作品/例のアレ/音楽ゲーム/エロゲー・ギャルゲー/声優・アイドル/聖地巡礼/その他アニメ・漫画・ゲーム(三種の神器)

学歴には興味ないけど大学受験には興味がある矛盾した男

現代社会における学歴の意味とはなんだろう。学者などのアカデミア方向を目指さない一般人にとっては、社会的階層の逆転装置に他ならない。この社会において「上」の会社や職業への就労のチャンスを得るために、「上」の大学を目指す。まあ、これは本来の大学の学問の意味からは外れているが、社会で生きる人間の多くはこういう認識だと思う。

良い職業(これは定義が無いが上昇志向が強い人間が就きたがる仕事とする)に就きたいから、高学歴を目指して受験勉強を頑張る。
これは俺はある意味合理的というか、何も不自然じゃないと思う。
大学を純粋な研究機関とみなす、所謂「研究厨」からは批判されるのだろうが、俺はそうは思わない。
というか、現代社会において、大学とは「研究機関であり教育機関」なのだ(結論)
研究機関なのは当たり前で、教育機関である理由はこうだ。
そもそも大学に入って若者が「教育」を受け能力が「向上」する、という建前があるからこそ、企業は高卒者に比べて高い給料を出す道理になるのだ。大学行ってるのに社会的意味合いを持つ教育を受けていないって話なら、給料も変わらないってならないと話が通らないからな。

という訳で、大学とは、上昇志向を持つやる気のある人間が、良い大学に入り、良い教育を受けて、高い能力を手に入れ、社会的に役に立つことを通じて、高い給料を手に入れる為の機関だと俺は思っている。

が、ここで問題になってくるのは俺自身。つまり、「別に高い給料は欲しくないのに何故か高学歴に拘る」人間だ。
話は逸れるが、そもそも俺は世間の一般人より高学歴の基準を高く設定している節がある。これもこの問題を更に深刻にしている。

俺の高学歴の基準は、理系なら東大、京大、東工大、阪大、名大、東北大、早慶、国立医学部、私立医の中堅以上、難しめの国立薬や歯や獣医。文系なら、東大、京大、一橋大、早慶の難関学部。これらは全て一般入試限定だ。
どうしてこのような基準になってしまったかは謎だが、おそらく「自分が普通にやれば行けそう」と感じるラインのちょい上だからだろう。まあ、俺が頑張って努力しないと入れないなってのがこれらに感じるのだろう。

あ、話は逸れるが俺はネットでよく見る「高学歴or低学歴」の2項対立が好きじゃなく、「中学歴」という概念を導入するべきだと思う。理系なら、理科大、マーチ、地方国立、4工大辺りが該当するのであろう。これらの人数の多い母集団が、「俺たちは高学歴側なのか、いやそれとも低学歴側なのか?」みたいなことを考えるから、思い悩むし、コンプを感じるのだ。俺は、これらの大学は、一般的な高校生が、親や学校や塾で言われた通りにそこそこ真面目に勉強して、そこそこの高校生活を送った場合入れる所だと認識しているため、そのような意味でも「中」だと思う。

金に拘らない理由はこのブログで散々書いているだろう。俺は、金のかかる体験より、金のかからない体験に価値を置いているからだ。
金を払って「消費者側」になるより、「創作者」側として何かを作る体験の方が、俺にとっては意味のあることだと思う。
つか、金無いと趣味が楽しめない!って断言してる奴を見る度に頭に「?」が浮かぶ。
まあ、俺もライブに行ったり、作品を買ったり、そういう趣味は確かに「消費行動」だから金がないと楽しめないが、自分の好きなキャラを描いたり、好きな作品の2次創作小説を書いたり、MADを作ったり、そのゲームをやり込んだり、そういう趣味は金かからないし、むしろ前者よりこっちの方が、オタクとして「レベルが高い」行動だと思うのだが。
金より時間や手間をかけるべきだろ、オタクなら。
あと、単純に金で買える物にあまり価値を見出していないことも理由だな。

まー、長くなってしまったが、俺にはそこまで「お金が欲しい」というモチベーションがない。それなら何故、本記事の文脈とは異なり「高学歴」に拘ってしまうのか。これらを書いていく。

 

自分の人生を振り返ると、やたら教育に熱心な親の元に生まれたことがこの問題の本質なのかもしれない。あ、一応言っておくと父親側は完全に放置でほぼ関わることなく、母親側が異常に熱心な感じでした。
あまり過去のことは思い出したくないので、詳しく書かないが、俺は母親のコンプレックスのせいか、父親の家庭の事情からか、将来俺に困って欲しくないという親の愛からか早期教育というか、塾や他の習い事をめちゃくちゃさせられていた。
今にして思えば別にそれらが特段辛かった訳ではないし、教育虐待だったかと言われればそこまでではない気がするが、中学受験を通して、競争心が不用意に育まれてしまった気がする。(でもどちらかと言うと、俺は発達障害傾向があり、馴染めない公立小学校に通うことの方が辛かった。小学校よりも塾の方が居心地良かった感じがする)
まあでも、その先を生きる上で、競争心があるのは別に悪いことではなく、むしろマイペースな俺を「改善」したと見ることも出来る。
決められた偏差値ランクに従って、上を目指して努力すること。この受験の本質というべきものを10〜12歳の時に経験したことが、間違いなくその先に関わってきていると感じる。

しかし、これは元々俺が比較的競争するのが好きだっただけなのかもしれないが。
インターネット対戦を通してレートやランキングを競うゲームや、ソシャゲのイベランみたいなのが好きだったし、元々競争意欲的なものは高いのかもしれない。

 

他の理由として、単純に勉強内容が好きだったのだろう。知的好奇心が高いというか。
高学力になるには主に2つのルートが存在すると俺は思っている。本人の性格の真面目さからだったり、将来の利益を得るための肩書きを欲して受験勉強に取り組む道と、単純に試験内容の分野の勉強が楽しくて受験勉強を遊びとして取り組む道だ。
俺は後者側だった。前者側はサラリーマンに向いていたり、ビジネスで活躍しそうな性格タイプなのだろう。後者は学者肌というか。(どう考えても就活の場では後者は予後不良だ)

俺は中高の時に沢山の対戦型ゲームにハマっていたが、受験勉強はその一つとして取り組んでいた。認識はゲームの一環だった。
今思うと、高校で周りにいた本気で勉強に取り組んでいる奴らは、受験勉強がゲームだとか娯楽の一環みたいには思ってなかったのだろう。将来のためのステップアップだと思ってやっているように見えた。
俺は、勉強は娯楽の一環だと思っていたため、苦痛に感じるまでやる気にはならなかったのが、伸び切らなかった理由なのだろうか。(まあそこそこはやっていた。エンジョイ勢といったものか)
受験勉強をタスクだったり、将来の肩書きの為と捉えられる人間の方が上手くいくのだろう。モチベーション的にも。

 

乱雑になってしまったが、俺が高学歴に拘る理由は、元々対戦型ゲームでランキングを競うような性格であり、受験勉強の内容そのものも割と好きであり、その流れで高レート帯に入りたい、といったモチベーションに似た形で高学歴を目指していた、というものだろう。どこに就職したいとか、偉くなりたいとか、金が欲しいとか、モテたいとかは何も考えていなかった。

まあ、その後色々あり、受験自体は失敗してしまった。これについては別の記事で詳しく書いた気がするし割愛。つーか、自分が取ったセンターの得点からマイナス20%が前期のボーダーの大学に進学するのはガチで受験の「失敗」だろ‥‥。

これがきっかけで俺は学歴コンプレックスを抱えてしまった。

だが、俺の抱えている学歴コンプレックスは、本当の意味の学歴コンプではなく、単純に、自分が労力を投じたものから相当の成果が得られなかったことへの鬱屈なのではないだろうか。

そもそも学歴コンプレックスとは、社会に出て、学歴が原因で不当に扱われたことをきっかけになるものである。
社会に出てもなく、学歴が原因で困ったことがない状態で自分の大学名に文句を言うのは、まだ学歴コンプレックスになる資格がないと俺は思う。こういったものは、上に書いたように、自分の努力が実らなかったことに対する悔しさであり、受験勉強だけでなくスポーツなどでも起こる一般的なことだ。

学歴を活かして社会で高待遇を得ようと思っていなかった俺は、そもそも学歴コンプレックスになる必要がなかったんじゃないか、と今になって思う。


つか、社会で活躍したい訳じゃないけど、受験勉強はゲームのように頑張る😤💪
こんなことやってる人間はどう考えても、現社会制度のバグなのである。そもそも俺みたいなあまり社会での上昇志向がない人間は受験勉強も頑張る必要がなかった。それなのに何故か(前述した理由によって)勉強を頑張ってしまったため、欲求に不釣合いな学力が身に付いてしまったのは不幸なのかもしれない。


そもそも、受験とは「〇〇になりたい」だったり「〇〇を勉強したい」というきっかけにより勉強を始めるものだ。だが、俺にはそれが無く、ただ成績を上げるのが楽しくて、勉強内容自体も割と楽しくて勉強をしていた。
そのせいで、将来何がしたくてこんなに勉強してきたの?という問いに答えることが出来なくなってしまった。

まあ、偉そうに自分は高学力だ、みたいな感じに書いてしまったが、この問題は俺だけの話じゃないと思ってる。というか、管理型の進学校みたいな環境で育てられ、勉強が特段嫌ではなかった人間は大体こうなると思う。こいつらの将来ってマジでどうするんだ?
目標があって得たわけではない学歴に縛られるのは思っているよりも辛いと思う。まあ、俺は受験に失敗して、その学歴すらも得られなかった。このような複雑な事情が、俺の複雑な学歴コンプを形成しているのだろう。

 

本記事のタイトルに戻るが、学歴ヒエラルキーは好きじゃないけど、受験勉強そのものと人と競うことは好き、これが俺にとって正しいのかもしれない。

 

何故俺が医学部や機電など、インターネットで「コスパが良い」と言われる進路を取っているのか。これは、俺が金銭や就労といったものがどうでもいいと思っているから、に他ならない。一見すると矛盾しているように思うかもしれない。だが、俺にとって「どうでもいい事」ならば、何も拘らず「コスパが良い」方を安直に選んだ方が「楽」なのだ。

 

自分の人生で本当に大切なものをコスパで選ぶか?
俺は自分の人生で一番重要だと思ってるのは、アニメや漫画やゲームなどの作品を楽しむことだ。そして、その中でも特に好きになったキャラを自分の手で描くのが好きだ。このブログではまだ明かしてなかったが、俺は2018年からイラストの趣味をやっていた。まあ、ここ2年は停滞しているのだが。昔は、絵が上手くなることが俺の生きている意味であり、自分の好きなキャラクター(霧矢あおい)を世界で一番可愛く描く事を「生きる目的」として研鑽を日々を送っていた。
しかし、可愛いキャラクターが見たいなら上手い人のTwitterアカウントをフォローすれば良いだけの話である。だが、俺は「自分の手で描けるようになる」ことに意味を見出していた。これはどう考えてもコスパが悪い。
お金を出すなら月に500円払えばメンバーシップ会員になり上手い絵が手に入るのに、自分で描くなら月に何十時間練習するのか分からない。それならその時間で働いた方が「コスパ良い」だろ?

まあ、この話から何が言いたかったのかというと、自分の本当にやりたい趣味や目的では「コスパの悪い」行動をとる事が正解であり、興味のない物事に対しては逆に「コスパの良い」行動をとるのが自然だということだ。


俺は純粋な学歴厨ではないのだろう。他人の学歴がどうとかマジで気にならないしな。というか、学歴ヒエラルキーとかもどうでもいいし。単純に昔頑張っていたゲームが、上手かったのに、それに相応な収穫が得られなかった悔しさが、俺の学歴コンプの源なのだろう。

 

追記

これ書いてて思ったけど、現代社会で、自分の意思で人生の方向性を決められる機会って、大学進学と就活の2つくらいしかないよなぁ。まあ、親からの圧力や影響によって、自由な進学が出来ない家庭もあると思うが、大学は高校と違って奨学金制度も一般的だし。
入った高校で人生決まるとは全く思えないし(これは大学もそうだと思うけど)、小学校受験する幼稚園児が、自分で行きたい小学校選んでるとは思えないしな。(中学受験もそんな気がする)
自分の意思で、人生を選択して決められるのって大学受験のタイミングと就活のタイミングしかない気がする。(まあ、勿論転職とかもあるんだろうが、俺は正規労働経験が無いからなんとも言えず書かなかった。)
大学を受験しないで、クリエイター向け専門学校に行くのも一つの手だったのかもな。まあ、流石にこれは自分の積み重ねた学力を無駄にしているようで選べなかったが。


なんかもう、一見すると自由なようだが、実際に選べる人生は一つに決まっているような気がする。生まれた土地、親、周囲の人間、持って生まれた才能、それに加えて多少の運に沿って作られた一つのシナリオを歩んでいるだけのような気がする。
カルヴァンの予定説のようだ。まあ、ここでの意味合いはかなり異なるが、雰囲気的に。